さぽろぐ

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<<マスターのプロフィール>>

・ネットの世界ではジアスと名乗っています。
・生まれは関西。東京から札幌に移住し、東京単身赴任を経て札幌に舞い戻った40代の勤め人
・札幌の自宅に嫁さんと娘がふたり
・趣味は酒、読書、映画、旅。特に英語の本を原書で読むのが楽しみ。

<<このサイトは>>

 私が読んだ本、観た映画の個人的な感想を中心に、仕事や日々の生活で思ったことなどをつぶやくこともあるブログです。仕事から帰って、ゆっくりグラスを傾けながら書き込むつもりですので、お読みになるみなさんもぜひ一緒に飲んでいるような気持ちで、ゆったりとお話できれば幸いです。

<<このBARの名前について>>

 "Clock in a forest"は、「森の時計」という喫茶店の名前から拝借しています。「森の時計」は、2005年1月〜3月に、フジテレビ系で放映された倉本聰氏脚本のドラマ 「優しい時間」 の舞台となった喫茶店の名前です。その店には「森の時計はゆっくり時を刻む」という倉本氏自筆の額が飾られていました。
 今のビジネスや社会は、「時間」をどんどん速く刻むことが競争に勝つための必須条件であると思えるかのような、非常に息苦しい状態になっていると思います。そんな中で生活するみなさんが、ほっと一息つけるような、そんなサイトになるといいな、というのがマスターのささやかな願いです。
 ちなみに、喫茶店「森の時計」は、ロケに使われた状態のまま、新富良野プリンスホテルの敷地内で営業しています。
























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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2012年03月18日

引っ越しました、が、ご不便をおかけします

 これまで利用していたブログサイトが4月末までで閉鎖になるそうなので、「ちっちの物語」を残すためにこちらに引っ越しました。

 ただ、元のブログサイトにあった「お気に入り」のサイトのリストが引き継げずにクリアされてしまっているのと、記事の中のところどころで、自分の過去の記事を参照している箇所があるのですが、そのリンクが切れてしまっているので、残念ながら正しい場所にジャンプしません。
 ご不便をおかけしますが、すこしずつ地道に復旧させていこうと思いますので、しばらくの間ご不便をおかけします。
 あと、ブログのテンプレートが元の気に入っていたものが使えず、強制的に変更されていますので、特に画面が横に広い方は、文章が横に長くなって読みづらくなっているかも知れません。その場合は、このブログを表示しているウインドウの横幅を狭くすれば、横幅に合わせて改行されるので、読みやすくなると思います。

 「ちっちの物語」はそのうちもう少し読みやすい形に整理しようと思っています。
 ブログの状態のままだと日付をさかのぼりながら読まないといけないので読みにくいですものね。
 ただ、3月4月の間に整理できる自信がないので、いったんこちらに引っ越しました。

 みなさんが、これからも時々、ちっちに会いに来てくださると、私たちはとても嬉しいです。

  

Posted by ジアス at 16:41Comments(0)お知らせ

2012年03月11日

ちっちの物語その55(最終回)~区切り

 ちっちのことをこのブログで書こうと決めてから、ちょうど約1年になりました。
 去年の3月3日にちっちのことを書き始めたのですが、そのわずか8日後に、東日本大震災が起きてしまいました。
 連日報道される大きな悲しみのニュースの前で、私たちは、小さな悲しみを抱えながら、正直言って途方に暮れていました。
 自分たちの気持ちの整理がつく前に、このような大きな悲しみが現れて、そしてそれが私たちの小さな悲しみをみんなの前から、それこそ津波のように押し流してしまうかのような、そんな思いを抱えてしまいました。
 遠くで起きた大きな悲しみを知ると同時に、私たちの目の前で起きた小さな悲しみは、決して当事者以外には本当の意味では理解できない、そういう気持ちを胸に、私はちっちのことをここで語り続けようと決めました。

 それは、とても苦しい作業でした。途中でやめても誰も困らないような作業でしたが、私の中の何かが私を突き動かし続けていました。そうして、長いマラソンコースの途中で、時には走り続けられなくなって歩きながら、時には倒れそうになりながら、ようやく1年かけてちっちとの別れの時まで書き続けることができました。

 3月に入って、東日本大震災から1年が過ぎようとする中で、大切な人を亡くした、あるいは行方不明で今も見つかっていない、あるいは生きているけれど離ればなれに暮らさざるを得ない、そんな多くの人々の声に触れる機会が増えて、今まで忘れていた、というよりは忘れようとして自分の心の中で抑圧していた感情が暴れ出しています。震災関係のニュースに触れると胸が苦しくなって、震災1周年の今日もずっと家にいたのですが、できるだけニュースには触れないように過ごしていました。

 大事な人を亡くしても、悲しんだあとで、いつかは前に進まなくてはと思っています。でも、今でも朝起きると、ちっちがリビングのソファに座って、「おはよう!」と言って私を迎えてくれるような気がしています。いずれは時が解決してくれるのかも知れませんが、少なくとも今の私と私の妻にとっては、ちっちは今も私たちと一緒に生きているという思いを消せずにいます。
 ちっちの生きるための希望に満ちた闘いを、この1年間ここに書き続けてきましたが、そこに一区切りをつける時がきたようです。

 「ちっちの物語」はこれで一区切りをつけようと思います。これまで、1年間、ちっちの物語におつきあいいただきまして、本当にありがとうございました。
 天国に旅立ったちっちと、そして私と一緒に歩んでくれている妻と長女と共に、御礼を申し上げます。  

Posted by ジアス at 23:11Comments(3)ちっちの物語

2012年03月05日

ちっちの物語その54~輝く雪

 一夜明けた翌朝は、うっすらと雪が積もっていました。
 世の中は今日から御用始なので、昨夜ほどではありませんでしたが、それでもたくさんの方々が、ちっちとの最後のお別れに来てくれました。

 葬儀の終わりに、ちっちの棺を会場の真ん中に置きました。ちっちは素敵な紫色の袴を着て、本当にただ眠っているだけのような、優しい顔をしていました。ちっちの友達や先生が、そして私たちも、式場にあった花をいっぱい、ちっちのそばに入れてあげました。一昨日から何人もの友達が、ちっちのために手紙を書いて持ってきてくれましたが、それも全部、ちっちが読むようにちっちのそばに入れてあげました。
 いつまでもいつまでも、ちっちがここにいるみんなの記憶に残っていてほしい、みんなの心の中で、ちっちはいつまでも生きていてほしい、そんなことを考えながら、ちっちとお別れするみんなの姿を見ていました。

 やがて、ちっちを乗せるリムジンが、式場の前に到着しました。外は今朝降っていた雪もやんでいましたが、式場の前に集まったみなさんに見送られてちっちと私たち家族が出発する時間になりました。
 私が集まってくださったみなさんに改めてお礼をした後で、隣にいた妻が簡単にお礼をしました。そして、その横にいたちっちの姉も、一言お礼を言ったちょうどその時、きらきらと輝くような雪が舞い降りてきたそうです。まるでそこにちっちがいて、みんなにお礼を言ったかのように。
 集まってきてくれた人たちが、何人も、後でそう言ってくれました。

 ちっちと私たちを乗せたリムジンは、わが家の前と小学校の前をゆっくりと通ってくれました。ちっちの想い出がいっぱい詰まった場所は、やはりちっちの大好きだったわが家と小学校でした。小学校のまわりをぐるりと一周している間、ちっちの笑顔を思い出していると、涙が止まりませんでした。

 そして、数時間後、ちっちは小さな骨壷に入って、わが家に帰ってきたのでした。
  
タグ :ちっち

Posted by ジアス at 22:39Comments(0)ちっちの物語

2012年02月26日

ちっちの物語その53~ちっちはこの小学校のこの学年を選んだ

 通夜は1日1組しか行われない小さな会場で行いました。

 ちっちの同級生たちがたくさん、家族と一緒に来てくれました。それから、小学校の先生方、養護学校の先生方、近所の方々、ちっちが習っていたエレクトーンや英語教室の先生など、ちっちを可愛がってくれた皆さんがちっちのために集まってくれました。

 会場に100人以上は座れるよう椅子を用意していたのですが、みるみるうちに会場はいっぱいになり、通夜が始まる頃には会場に入りきれないぐらいたくさんの方々がお見えになって、外のロビーも人であふれていました。正確には数えていませんが、300人以上の方々にお越しいただいたと思います。本当にありがたく、そしてずっと立ったままちっちにお別れをしていただいた方々には本当に申し訳なかったと思います。

 ちっちの同級生の6年生の子供達にとっては、ほんの1週間前の終業式に来ていたちっちが深刻な病状であることはもちろん、そもそもちっちが白血病だったことも話していませんでしたので、この機会に皆さんに御礼をかねて、これまで話してこなかった本当のことを話しておこうと思いました。
 そして、和尚さんのお経や焼香が終った後の、喪主の挨拶の時に、ちっちのこの2年間の本当の闘いのことを、私からお集まりいただいた皆さんにお話しました。

 ちっちが急性リンパ性白血病という病気と闘っていたこと、一度退院した後再発して骨髄移植をし、再度退院して6月から6年生のみんなと一緒に過ごすことができ、2学期の終業式まで学校に行ってみんなと一緒の時間を過ごすことを最後まで望んでいて、その通りに頑張り続けたという、このブログでもお話してきたこの2年間のことをお話ししました。
 その後に、ちっちの誕生の予定日が3月の下旬だったにも関わらず、ちっちが4月になって生まれてきたので今の6年生の学年の皆さんと一緒になれたという13年前のエピソードを話しました。そして、それまで札幌市内の別の場所に住んでいた私たちが、今のわが家が建っている土地の抽選に申し込んだ時に、妻がまだ2歳のちっちを抽選会場に連れて行き、ちっちにくじを引かせたらちっちが見事に当たりくじを引いたというエピソードを話しました。
 つまり、ちっちは今日集まってくれている小学校の6年生の皆さんと同じ学年で、同じ小学校に通うことをちっち自身が選択したので、皆さんにお会いすることができたこと、そしてそれがちっちにとってはとても素晴らしい出会いだったことの感謝を、皆さんにどうしてもお伝えしたかったからです。

 私はあまり人前で話すのが得意ではないので、たどたどしく、また自分が思っていたよりかなり長い挨拶になってしまったようですが、あとから多くの人に、いいお話でしたということを言ってくださいました。ちっちのために皆さんが集まってくださったのですから、ちっちが少しでも皆さんの心の中にこれからも生き続けていただければ、という想いが皆さんに伝わったとしたら、とても嬉しいことです。

 通夜が終わって、たくさんのお客様ひとりひとりにご挨拶をしました。その後で通夜振る舞いの簡単な席を設けました。私と妻の双方の親(つまり、ちっちの双方の祖父母)も到着し、北海道で家族ぐるみの付き合いをしていてちっちを赤ん坊の頃から知っているご家族何組かと一緒に過ごした後で、私と私の父の2人が、式場に残ってちっちと一緒に夜を過ごすことにしました。妻も残ると言ったのですが、上の娘もいますし、祖母たちも遠くから来ていますので、わが家に帰ってもらうことにしました。そうして、私の父と一緒に、ちっちの棺が置かれた式場の片隅に布団を敷いて、ちっちと共に一夜を過ごしました。

 珍しく正月まで雪が積もらない冬でしたが、3日の夜は雪になり、夜中にトイレに立ったときに外を見ると、しんしんと雪が降り積もっていました。
 それを見ると、きっとちっちの魂はこの通夜の場を見ていたという確信のような思いが胸にやってきました。そして、ちっちの魂が、どんな想いで今日の光景を見ていたかなんてことを考えながら、降り積もる雪をしばらく見続けていました。  

Posted by ジアス at 22:27Comments(0)ちっちの物語

2012年02月19日

ちっちの物語その52~紫色の袴

 3日になりました。

 2階の和室で眠っているちっちを、今日は納棺して通夜が行われる式場に運ぶ日でした。夕方からの通夜の前に、ちっちを1階のリビングに降ろしました。

 納棺にあたって、ちっちに、卒業式の時に着せてあげるつもりだった紫色の袴を着せてあげることにしました。その袴は上の娘が小学校を卒業する時に、隣の家の奥様から借りて着せてあげたものでした。
 わが家は10年前に今の場所に家を建てて引っ越してきたのですが、その時に隣にすでに隣に住んでいたご夫婦には本当にお世話になっていました。わが家が引っ越してきた時、まだ3歳だったちっちをとても可愛がってくださいました。奥様は着物の着付けを教えていて、上の娘の小学校の卒業式の時には、隣の家で着物を着せてもらってから、卒業式に出ました。このときの記事には着物のことには何も触れていませんでしたが、この時に触れている「出会ったこと」の運命が、まさか3年後にこのような続きになるとは思ってもみませんでした。ちなみに、ちっちの担任と、この時のちっちの姉の担任は、同じ先生なのです。

 隣のご夫婦にもちっちの病状が深刻なことを伝えていなかったので、2日に私たち夫婦が訪ねてちっちが亡くなったことを伝えた時には大変驚かれてしまいました。すぐにわが家をご夫婦で訪ねてくださり、奥様から「ちっちの卒業式をしてあげよう。この袴を着せてみんなで卒業式をして送り出してあげよう。」というお話を頂いた時には本当にありがたく、そのご好意に甘えることにしました。

 納棺に先立つ湯灌がわが家のリビングで行われ、ちっちの身体を拭いてあげたあとで紫色の袴を着せて、ちっちを棺に納め、庭からクルマに乗せてちっちを通夜の式場に運びました。
 式場はわが家から歩いても5分程度の近い場所で、すでに花でいっぱいの祭壇がしつらえられていて、ちっちの棺が、満面の笑みをたたえるちっちの写真の前にそっと置かれました。この写真は、妻が携帯で撮ったものを大きく引き伸ばしたものなので、近くで見るとぼやけた粗い写真に見えましたが、参列者が座る椅子の場所からはとても素敵な笑顔のちっちに見えました。

 3日も穏やかに晴れていましたが、その陽が沈む頃、式場にちっちがお世話になった皆さんが、続々と集まってこられました。  

Posted by ジアス at 22:39Comments(0)ちっちの物語

2012年02月18日

ちっちの物語その51~悲しい知らせ

 2日の朝になりました。

 ちっちは2階の和室のふとんの中で眠っています。
 まるで何事もなかったかのように、「おはよう」と言って起きてきそうな寝顔でした。でも、そのちっちの横には、昨夜のうちに葬儀屋さんがしつらえていった仮の仏壇が作られていて、すでにちっちの魂が旅立った後だということを物語っていました。

 ちっちの通夜は3日の夜、葬儀は4日ということにしました。
 私達夫婦の実家はいずれも本州で、それぞれの両親(つまりちっちにとっては祖父母)が札幌に来るのに2日の夜だと間に合わないからです。
 私の実家の近くのお寺と同じ宗派のお寺を紹介してもらい、そのお寺の和尚さんに枕経をあげていただきました。

 そしてまず、悲しいお知らせを、これまでちっちを支えてくれた皆さんに伝えなくてはなりませんでした。学校の先生方に、そしてちっちの同級生のみんなに。
 小学校からは、担任の先生、校長先生、教頭先生、養護の先生、そして6年生のもう1組のクラスの担任の先生と、お世話になった先生方が正月にもかかわらずすぐに駆けつけてくださいました。

 ちっちの同級生の6年生のみんなには、ちっちの病状が深刻だということを伝えていませんでしたから、ゆっくりとお正月を祝っていたところに伝わった衝撃は大きかったようです。
 ちっちと仲のよかった近所の友達が、友達同士で、あるいは親御さんと一緒に、次々とちっちに会いに来てくれました。みんな、ほんの1週間前、2学期の終業式でちっちと一緒にクラス写真を撮って、そしてまた3学期の始業式でちっちに会えることを、何の疑いもなく信じていたはずでした。誰もがこの悲しい知らせを信じられなかったようですが、当たり前のように来るはずの明日が、来ないこともある、という悲しい事実がそこにはありました。

 皆さんがたくさんのお花を持ってきていただいたので、ちっちはみるみるうちにたくさんの綺麗な花で囲まれました。そこで、訪れてくださった誰もが、ちっちの顔を見て、本当にただ眠っているだけのような綺麗な顔をしていると言ってくださいました。
 昨日はまだちっちはこの家で私たちと一緒に会話をして過ごしていたんだと思うと、やはり昨夜の一連のことは夢のように思えることもありました。でも、ちっちの魂がきっとこの家の中で見ているような気持ちになりました。そして、ちっちのためにたくさんの方々が会いに来てくれていることを感謝する気持ちが自然に湧いてきました。でもその一方で、それまで当たり前のように私たちのすぐ目の前にあった、ちっちの声がもう2度と聞けない、ちっちの笑顔がもう2度と見られない、ということは、やはりどうしても私たちにとってはそう簡単には受け入れられないような気がしました。

 これまで迎えたことのないぐらいたくさんの方々がわが家を訪れて、そして整理できない様々な感情が渦巻いている中で、穏やかに晴れた2日の陽が西に暮れていきました。
  

Posted by ジアス at 18:22Comments(0)ちっちの物語

2012年02月12日

ちっちの物語その50~帰宅

 ちっちがわが家を救急車で出てから、私達は最後のあと何日かを病院で過ごすものだと考えて準備をしていましたが、結局、ちっちが息を引き取るまでの時間は、20時半ごろに病院に着いてから、約1時間半のとても短い時間でした。
 救急車を呼ぶタイミングも自分で決め、そして救急車の中ですら、荷物の置き場所などを救急隊のスタッフの人たちに指示していたと後で妻から聞きました。それぐらい、自分の意志をしっかりと最後まで貫いていました。

 死ぬ間際に苦しむこともなく、暴れることもなく、意識もない中で延命治療もすることもなく、亡くなる直前まで大好きなわが家で家族と一緒に過ごし、そして大好きな家族に見守られながら、天国に旅立っていったのです。
 ちっちが生まれて名前をつける時に、「自分の意志で自分の人生をしっかりと選んで歩いていってほしい」という願いをこめてちっちに名前をつけたのですが、本当にその通りのしっかりした人生を歩み続け、そして最期まで、その通りに人生を全うしました。ちっちの人生はあまりにも短い時間でしたが、その最期はとても立派な「最高の人生の終り方」でした。私は自分が死ぬときにこんな凄い人生の終わり方をすることができないのではないかと思うくらい、ちっちにとてもすごい生き様を教えてもらった気がします。

 私たち家族はしばらく、ちっちの周りで無言でたたずんでいました。
 それぞれがこの時が来ることを覚悟していたとはいえ、それぞれがちっちに語りかける時間が必要でした。

 そして私は近所の葬儀屋さんに電話をして、通夜と葬儀の予約をし、B病院までちっちを迎えにきてくれるように告げました。
 葬儀屋さんのクルマが約1時間後に着くまで、私たちは病室でちっちと一緒に待つことができました。ふだんであれば亡くなった人がいることが周囲に悟られないように、早く病室を出されて地下の霊安室に移されることが多いようですが、元旦の夜で外泊で自宅に帰っている子供たちが多いのか、小児科病棟はあまり人の気配がしませんでした。
 クルマが到着するとちっちと妻は一緒にエレベータで降りて葬儀屋さんの車に乗り、私と長女は病院の前で客待ちをしていたタクシーに乗って帰りました。

 日付が変わる前に、ちっちは、ほんの4時間前に出たばかりのわが家に無言の帰宅をしたのでした。  
タグ :ちっち

Posted by ジアス at 22:35Comments(0)ちっちの物語

2012年02月11日

ちっちの物語その49~旅立ち

 電話を終えて、エレベーターホールからナースステーションの前に戻ると、ほんの数分前までは看護師さんや当直医の先生がいたナースステーションの中には誰もいませんでした。これは何かあったと思い、急いで病室に戻りました。

 私が先生に呼ばれて病室を離れている間に、少し落ち着いてベッドに横たわっていたちっちがその時にがばっと起き上がり、ベッドの側にいた妻のほうに何度か覆いかぶさってきたそうです。
 その様子を見て、病室に戻っていた主治医の先生が「やっぱりちっちちゃんはお母さんなんだね」とつぶやいたそうです。あとで妻は「ちっちが最後に抱きしめてくれたような気がした。」と言っていました。きっとそうだったんじゃないかと私も思います。

 私が部屋に戻った時にはちっちはやはりベッドに横たわっていて、私がいない間にちっちが起き上がったとは思いませんでした。妻と長女がちっちを呼ぶ声がする中で、私もちっちの側に行ってちっちの右手を取りました。
 少し握力が弱っているような気がしましたが、ちっちが赤ちゃんの頃から何度も触れてきた、とっても愛おしい手です。いろんな思い出が頭の中を駆け巡りました。なんでちっちとこんなに早くお別れをしなくてはならないのか、なんでこんな理不尽な運命が待っているのかというやりきれない気持ちが渦巻いていました。病気になるまでは家族4人で過ごす毎日に楽しいことがいっぱいあったし、病気で苦しい思いもしたけれど、きっとちっちは元気になるから、元気になったらもっともっと、つらい治療に耐えた分以上に、ちっちの望むことをいっぱいかなえてあげようと思っていました。しかし、それももはやかなわぬ願いになってしまうということが、この何ヶ月間か覚悟してきていたとはいえ、とても受け入れられそうになく、胸が苦しくなりました。
 いつまでこの手の温もりを感じていられるかはわかりませんでしたが、かすかな温もりでもいいから、ずっと握って暖め続けていたいと、心から思いました。

 私たち家族がちっちのことを呼び、ちっちに心の中でいっぱいいろんなことを話しかけている中で、ちっちの呼吸は少しずつ弱くなっていきました。

 2011年1月1日21時50分。
 12年と9ヶ月の短い生涯を終えて、ちっちは天使になりました。
  
タグ :ちっち

Posted by ジアス at 23:59Comments(0)ちっちの物語

2012年02月05日

ちっちの物語その48~人って何?

 ちっちのベッドの側には妻がいて、その周りを看護師さんやスタッフの方々が色々と動き回っていたので、私たちが病室に着いた時は少々慌しい雰囲気でしたが、ようやく点滴が効いてきて、水分を欲していたちっちの動きが少し落ち着いたように見えました。

 その時、ちっちから私たちに、思わぬ言葉が発せられました。

 「人って何? 人ってなあに?」

 私たちは一瞬、「えっ?」と言葉に詰まりましたが、すぐ次の瞬間には、私と妻は口々に「ここにいるみんなだよ」「生きているみんなだよ」という答えをしました。
 ところがちっちは、それを聞いて「わかんない! 説明して!」と言いました。

 ちっちはどんな答えが欲しいんだろう?
 そうとっさに考えて、ちっちが納得するようにいろんな説明をしようとしました。

 「ちっちもパパもママもおねえちゃんもみんな人だよ」
 「ちっちを見守っているみんなだよ」
 「ちっちのことを大事に想っているみんなのことだよ」などと、色々話しかけました。
 でも、ちっちは、「みんなって何? わからない。説明して! 人って何? 説明して!」と言い続けました。
 私たちの言葉が届いているのかいないのかわかりませんでしたが、少なくともちっちが求めることには精一杯応え続けてあげたいと思いました。そして、妻が一生懸命答え続けている横で、いつしか私は言葉で答えるのをやめて、ちっちの心に届くようにと思いながら、ちっちの手を握り続けていました。

 ちっちはいったいどんな答えが聞きたくて、私たちにこの問いを投げかけたのか、今でも時々思い出しては考えます。それは、ちっちが私たちに一生かけて考えるように、遺してくれた大きな宿題のような気がします。

 やがて、主治医の先生が病室に来て、私と話したい、ということでしたので、妻と娘を病室に残し、先生と一緒にナースステーションで向かい合って座りました。
 先生は、私たちの以前からの希望通り、無意味な延命治療はしないが、できるだけのことをするということを約束してくださいました。モルヒネを入れて意識がなくなる可能性があること話も出ましたが、ちっちの頑張りしだいであるとはいえ、まだもう少し時間があるだろう、というように私は先生の話を受け止めました。

 先生の話を聞いて少し安心したので、すぐには病室に戻らず、電話をかけるためにエレベーターホールに出ました。そして遠く関西にいる私の実家の両親に今日一日の出来事と、そして入院したことを伝えました。
  
タグ :ちっち

Posted by ジアス at 14:44Comments(1)ちっちの物語

2012年02月04日

ちっちの物語その47~意識

 救急車の中で、ちっちはしきりに「怖い、怖い」と怖がっていたそうです。

 元旦の夜で道はとてもすいていたので、B病院には非常に速く着きました。
 小児科病棟の病室に着くと、ちっちは少しずつ落ち着きを取り戻し、「あれっ? ああびっくりした。死んだかと思った。」とつぶやいたそうです。
 主治医の先生や看護師さんたちが集まってきて、「何を言っているの?ちっちちゃん。死ぬわけないでしょう。」と口々に元気づけると、ちっちは「だよね~。」と少し笑顔を見せました。
 そして、いつもなら点滴の針もいやがるのですが、「のどがかわいたぁ。早く点滴を入れて。」と言ったそうです。ところが、点滴が血管になかなか入らず、手間取りましたがちっちは痛がりながらも頑張っているように見えました。
 先生は冷静に状況を見ていました。付き添っていた妻には、まだ大丈夫だというニュアンスのお話をしていただいたようですが、ちっちの片方の肺はすでに機能していない状態だったので、もしちっちが呼吸が苦しくなった場合はモルヒネを入れる必要があるかも知れない、という話をしました。この段階でモルヒネを入れると、意識を失って戻らない可能性があるということを妻は理解していましたので、何か胸騒ぎがしたらしく、「少なくとも夫と娘が来るまで待ってください。」と話して、私に電話をくれたのでした。

 その電話を聞いた私たちは、すぐに着替えてタクシーにで病院に向かいましたが、タクシーの中では2人ともほとんど黙っていました。彼女は携帯でずっと誰かとメールをしていましたが、きっと心の支えになる誰かがいるのでしょう。

 タクシーが西野のびっくりドンキーの前あたりに差し掛かったところで、妻が私の携帯を鳴らしました。あと10分から15分ぐらいで着くと伝えたのですが、その電話を切ったあとで、不思議なことにちっちが「パパとお姉ちゃんがこっちに向かっているのが見えるよ。」と妻に言ったそうです。

 間もなく私たちもB病院に着きました。
 病室に着くとちっちは点滴をうけてベッドに横たわっていました。妻と看護師さんがベッドのそばにいて、のどが渇いたと訴えるちっちにガーゼに含ませた水でちっちに水分を与えていました。ちっちの様子は昨夜や日中の苦しんでいる時に比べると少し落ち着いているように思えました。
  

Posted by ジアス at 14:25Comments(0)ちっちの物語