さぽろぐ

日記・一般  |その他北海道

ログインヘルプ


< 2024年04月 >
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
アクセスカウンタ
過去記事
<<マスターのプロフィール>>

・ネットの世界ではジアスと名乗っています。
・生まれは関西。東京から札幌に移住し、東京単身赴任を経て札幌に舞い戻った40代の勤め人
・札幌の自宅に嫁さんと娘がふたり
・趣味は酒、読書、映画、旅。特に英語の本を原書で読むのが楽しみ。

<<このサイトは>>

 私が読んだ本、観た映画の個人的な感想を中心に、仕事や日々の生活で思ったことなどをつぶやくこともあるブログです。仕事から帰って、ゆっくりグラスを傾けながら書き込むつもりですので、お読みになるみなさんもぜひ一緒に飲んでいるような気持ちで、ゆったりとお話できれば幸いです。

<<このBARの名前について>>

 "Clock in a forest"は、「森の時計」という喫茶店の名前から拝借しています。「森の時計」は、2005年1月〜3月に、フジテレビ系で放映された倉本聰氏脚本のドラマ 「優しい時間」 の舞台となった喫茶店の名前です。その店には「森の時計はゆっくり時を刻む」という倉本氏自筆の額が飾られていました。
 今のビジネスや社会は、「時間」をどんどん速く刻むことが競争に勝つための必須条件であると思えるかのような、非常に息苦しい状態になっていると思います。そんな中で生活するみなさんが、ほっと一息つけるような、そんなサイトになるといいな、というのがマスターのささやかな願いです。
 ちなみに、喫茶店「森の時計」は、ロケに使われた状態のまま、新富良野プリンスホテルの敷地内で営業しています。
























サーチ:





キーワード:





Amazon.co.jp のロゴ









QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
プロフィール
ジアス
ジアス
インフォメーション


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  
Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2008年07月29日

本を読む速さは人それぞれ~「DEATH NOTE」から

 つい最近、わが家で同じ本を4人がほぼ同じ時期に読む、という珍しいことがありました。その時に面白い発見をしたので、今日はその話をします。

 読んだ本は英語じゃなくて、日本語のコミック「DEATH NOTE」です。一昨年に連載が終了し、その後アニメ化・映画化されたのでご存知の方も多いと思いますが、ひょんなことから嫁さんが先々週に全部で12巻大人買いしました。すると嫁さんも子供たちも先を争うように、テレビもつけずに夢中で読んだらしく、それを聞いて私も読み始めたら面白い!札幌に帰っている間に読み切れなかったので、後半は東京に持ち帰って最後まで読みました。

 知らない方のために補足しておくと、「DEATH NOTE」は、そのノートに名前を書くと書かれた人が死ぬという死神のノートを軸に、ノートを使って犯罪者を裁き新世界を築く野望を抱いた男と、それを大量殺人犯として追う探偵との戦いの物語です。相手の裏の裏の裏まで読みあう壮絶な心理戦が展開し、コミックですが話が複雑で文字が多いと有名で、読み飛ばすのは簡単ではありません。

 面白かったのは、この本の読み方が2人の娘の間で全く違ったことです。それを発見したのは嫁さんで、「上の娘(中1)は50%理解できればよいぐらいの感じでどんどん読んでいるけれど、下の娘(小4)は120%理解したいみたいでじっくり読んでいる。私は70%ぐらいかなあ。結末を知りたくてどんどん読むけど、上の娘の速さにはかなわなかった。」ということでした。そこで上の娘に聞くと、「きっと何度か読むから最初はざっと話の筋を知りたいし。字が多くて大変だったけど2回目はもっとじっくり読むと思うよ。」という答えが返ってきました。
 つまり、上の娘は再読前提で全体を俯瞰することを優先しているということで、国語の長文問題や新聞・雑誌などで有効な読み方をすでに身につけているということです。一方、下の娘は登場人物の心の動きなどを細かく読みながら一度で物語を理解したかったみたいです。

 ところが、児童書を読んでいる時はこの読み方とは違い、上の娘はじっくり読んでいて、下の娘の方が同じ本でも読速が速いことが多いというから面白いんです。マンガは再読するにしても気になる部分をすぐに探してそこだけ読むことができるけど、小説でそれをするのは難しく、章の頭とか物語の最初から読み返さないとわかりにくいと思います。上の娘の読み方は私の読
み方に近く、ざっと読むものとじっくり楽しむものを区別して読んでいるのに対し、下の娘は発展途上というか、彼女の読む小説は常に姉を追いかけるようなキリン読みだからのことが多いからだと思います。だから本の難易度で読む速さが変わるのでしょう。下の娘は、時間をかければ自分が理解できそうかということを意識しながら読む速さを変えているとも考えられます。
「DEATH NOTE」の場合はマンガで絵が助けになるので、理解できると判断したのでしょう。

 ちなみに嫁さんは「小説はもっと速くて50%ぐらいの理解度で結末を急ぐ読み方なので、DEATH NOTEは時間がかかった。」そうです。自他共に認めるせっかちで、考える前に体が動く人なのでわかるような気がします(笑)。仕事の難しい本以外、何かをじっくり読んでいるのを見たことがありません。

 こうして考えると、同じ本を読む速さも人によって個性があり、さらにはその本をどのように読みたいか、という意識によっても読む速度は変わるということです。
 英語の本を読むときでも、自分が楽しんでじっくり読みたいのか、どんどん飛ばし読みしてでも結末を急ぎたいのか、それを同じ尺度で測れるわけではないということですね。ましてや他人との比較は意味がないということになります。

 え?私はどうだっのかって?
 再読の時間はなさそうなので一度で理解しようとして読んでましたね。でも、実は13巻という全体の解説本があって、それを読むと自分が見落としていたことがあって、気になったのでもう一度読んでます。それぐらい、ハマっちゃいました(笑)。

#今日の記事は私がコラムを書いている「SSS英語多読研究会」のメルマガ「SSS多読通信219号」のコラムに掲載したものです。  

Posted by ジアス at 23:23Comments(0)英語

2008年03月30日

英語と国語では求められている解答が違うかも

 間者猫さん、コメントありがとうございます。

 昨日の記事を書いてから考えたのですが、中学や高校のレベルで、英語の試験に出る問題と(現代)国語の試験に出る問題のレベルの差は明らかにありますね。
 国語の試験の問題は高度な理解力を要する問題なので、ふだんの読書量の差が如実に出る問題となるのですが、そこまで内容が難解な文章が英語の試験では出題されることはまずないですし。
 その一方で英語の試験って、日本語で言えば「てにをは」にあたる前置詞を空欄にして穴埋めしたり、本当に正しい発音も教えられないくせに、難解な発音記号から英単語を書かせるような変な問題を出して無理矢理生徒に点数の差をつける、そんな変な教育がまかり通っているらしいです......
 いっそのこと、英語の試験も国際標準を意識して、平均点は100点満点の10点か20点程度でもいいから、ふつうに英米で読まれている文章を出題し、どんだけ世界のビジネスや文化交流に通用するレベルにあるかというように評価尺度に変えるだけで、日本が世界に印象づけられる地位がどれだけ好転するか簡単に示せると思いますが、そんな評価能力もないジジイどもには想像することすらあり得ない世界なんでしょうね。

 今の政権の無能を糾弾するのは簡単ですが、それを倒した政権がまともである保証は残念ながらどこにもない、ということは過去の世界史が証明しています。私は福田も小沢も嫌いですが、かといってそれ以外の人が政権をとってまともな政策をすぐに打ち出せる状況じゃなさそうだ、というのもわかりますしね。
 結論として、絶対に政治をあてにしてはいけない。いざとなった時に頼れるのは、国境を超えて価値を持つ資産と人脈ということになるんじゃないかなあ。

 って政治の話じゃなかったんでしたっけ?
 でも、大事なのはまず国語力、という考えは変わらないですし、子供たちには「騙されないために」国語力、もっと言えば論理的に考える能力をつけてほしいと思います。  

Posted by ジアス at 23:52Comments(0)英語

2008年03月29日

英語は暗記と根気!?

 今週末も札幌です。
 さきほど、上の娘を塾まで送ってきました。彼女が4月から通う中学校のすぐそばなので、歩いて行ける距離なんですけど、今日の札幌はみぞれまじりの雨で寒いので。今日あたり東京は桜の花も見頃らしいですが.....

 上の娘はいわゆる学習塾には通っていませんが、5年生の頃から春夏冬の休みだけ塾の講習会に通っています。ふだんは学校の宿題の他に通信添削の課題をきっちりやっているし、その結果として範囲の無い実力テストができているので、本人が行きたいのでなければ無理に塾に通わせる必要は無いと考えています。
 私も同じように学習塾に通わず通信添削中心で中学・高校時代を過ごし、現役で目指す大学に受かったので、自分の経験上こうすればいいというのは大体アドバイスできますしね。勉強の本質なんてそんなに簡単には変わりませんから。

 ただ、英語だけは多読を知ったおかげで、自分の受験時代と違う戦略が必要みたいです(笑)。受験を突破するだけなら自分のやってきたやり方でいいんですけど、小学校の卒業文集にも書いてある彼女の将来の夢は、英語を使いこなせないと実現しない夢だし、無駄な遠回りはさせたくありませんから(笑)。

 彼女が塾でもらってきた小冊子を見ると、英語の学力アップのコツは
「教科書を声に出して読むことが大切です」
「入試で満点近く採る生徒は、中1~中3の教科書を暗誦できます」
「声に出すことで単語や文章が覚えやすくなり、正確な発音を心がけていれば聞く力もついてきます」
「わからない語句や単語、熟語などが出てきたらすぐに辞書で調べましょう」
で、結論として、「英語は暗記と根気が大事」ということが強調されています。でも、そんなの読むとげっそりです。

 同じ冊子の国語の学力アップのコツの欄を見ると、「本をたくさん読むことが読解力をつける」という私の意見と同じことが書かれていて、本を読むこと以外に付け焼き刃的な対策は無い、ぐらいにまで言い切られています(笑)。
 だったら、英語だって同じ語学なので「本をたくさん読むことが読解力をつける」ことになるはずだと思うのですが......

 娘たちにはもっと楽しい道があるよ、ということを教えてあげようと思いますし、具体的にどうすればいいか、考えていることはいろいろありますが、それはおいおい別の日にでも話しますね。

  

Posted by ジアス at 11:55Comments(1)英語

2008年03月23日

「脳内映像化」もう少し詳しく説明すると.....

 お待たせしました。

 大反響をいただいた脳内映像化の話で、みなさんからいただいたコメントにお答えしますね。このお店だけじゃなく、酒井先生の「ややこ式」の掲示板にもたくさんのコメントを頂いています。みなさんありがとうございます。
 NEOさん、引用は全く問題ありません。今日は自分の脳内映像化について、もう少し詳しく書いてみます。Q4さんのコメントへの答えにもなると思います。
 長くなりましたが、自分の理解のクセを掴むことは、実は外国語を効率良く習得するために必要なのかなと思うようになりました。
 多読または多聴を通じて、脳内映像化をしている方の参考になれば。

 まず、本を読んで脳内で映像化される方はある程度いらっしゃるということですね。酒井先生が「聞いたことがない」とおっしゃっていたのは、考えてみるとこれまであまりそのような話題になったことがないんですね(苦笑)。
 「本を楽しんでいればよい」のであって「どのように理解しているか」まで今回のように突っ込んで掲示板やオフ会で話題になったこともないと思いますし。

 混乱を招かないようにあらかじめ断っておくと、寅彦さんのコメントにあったように、私の脳内映像化は脳内音読を伴いません。多読では単語や文章を見た瞬間に映像が頭に浮かび、動き始めます。この状態は多読を始めた頃からある程度意識して目指していました。例えばリンゴを見て、それを「リンゴ」という日本語経由でappleになるのでなく、いきなりappleとして理解する必要があると考えていました。この考え方ならばrunやjumpという単語の入った文章を見ると当然脳内で動画が浮かぶことになる訳です。

 私にとって「頭の中で和訳をしない、英語を英語のまま理解する」ということが脳内音読ではなく、いきなり映像化する理由は上記の他にもう1つあって、オフ会の席上では話しましたが、私は日本語の場合でも音読するより黙読の方が理解度が高く、音読すると理解力が下がるからです。これは私の独特の理由だと思います。黙読する時はかなり高速で文字を追っているので、音読のスピードが遅くて邪魔になることが多く、理解に音を介在させなくてもいいようにするという無意識のトレーニングを、振り返ってみると私は子供の頃からやっています。小学校の頃から、国語の教科書の音読は好きじゃなかったですね。そんなことより授業をほったらかして、先をがんがん読みたい子供でした(笑)。

 ただ、脳内映像化を実は日本語の小説でもやっている、ということに気付いたのは、英語の多読を始めた後のことで、それまでは当然のこととして意識したことすらありませんでした。おそらく、かのんさんは私とかなり近い読み方をされていると思います。私が上で「日本語の小説」と限っているのは、新聞や雑誌、仕事の資料のような高速斜め読みモードになっている時には映像化を行わず、むしろキーワードをスキャンしてその間を適当につなげる、という読み方をしているからです。この読み方と脳内映像化は実は相性が良くて、小説だけど時間がなく斜め読みしたい場合は、映像化する場所を適当に端折りながら読み進んでいけます。つまり、重要でない部分を適当に映像をカットしながら進んでいくような感じです。

 映画やドラマだと、カット割りを切り替えることで途中を端折るような技法がよく使われ、原作を読んだ後で映画を見ると、ある部分がばっさりカットされていたりしますが、速く読みたい時はそんな感じで読んでいきますね。
 ただ、小説は娯楽なので本来は味わって読みたいと思っていますので、必要な場所では速度を落とし「解像度を上げて」(←かのんさん、言われてみると過去にSSSの掲示板で何気なく使っていたこの表現、ぴったりですね!)映像化します。
 会話のシーンなんかこの部分の違いが思いっきり現れる部分です。Kaakoさんのコメントに絡めると、解像度を上げてじっくり読んでいる時はしゃべっている人がアップになる画面が頻繁に切り替わっていくという感じで、自分もその映像の中に入っていて臨場感満点ですが、ある程度流している場面では数人が一緒に映っているロングカットで会話が進行していくような感じ。自分も少し距離を置いてそれを見てますね。そのように、同じ「映像化」でもどう映像化するかはその時によって違います。カラーかモノクロか、と言われるとカラーのことが多いけど、解像度を下げている時はモノクロのこともあります。
 そういう意味では、行間を勝手に想像力で補えるのは読書の最大の楽しみと言っても過言ではないです。チビママさんのようにイケメンを主役にするのもありですしね。

 でも、チビママさんの指摘にあるように、英語の言葉とか韻を楽しんでいるかというと、そこに気付いていないか読み飛ばして無視している可能性すらあります。そう言えば、多読の初期にロアルド・ダールの本を集中して読んでいたことがありますが、奇想天外な話は楽しんでいたけれど、彼の本のもう1つの特徴である言葉遊びの深さには、「ただ難しい」という印象しか残ってなかったですね(苦笑)。「チョコレート工場の秘密」の原作でもあのOompa-Loompasの歌の部分が一番苦手でしたし.....

 というわけで、私の場合、情報収集と娯楽のためのリーディング力をつけるという目的での英語力はついていますし、それに引きずられてリスニングとスピーキングに多少の改善は見られていますが、文法力とライティング能力は全く改善されていません。語彙力もついたとは言い難いが、基本的な易しい単語の語彙力はついていると思います。これは多読の効果ですね。

 こんなもので、もし参考になれば。
 ご質問のある方はコメントいただければ、またそのうちお答えできると思います。

  

Posted by ジアス at 13:54Comments(1)英語

2008年03月17日

大反響.....

 今日はこんな小さなBARにお客様が詰めかけ、てんてこまいです(笑)。
 443名のお客様のご来店は開店以来ぶっちぎりの新記録ですね。

 みなさんコメントありがとうございます。
 酒井先生の掲示板にコメントされている方の投稿も読みました。
 映像化されている人が意外に多かったので少し安心しました。
 日本語でもそうだと気づいたときから、自分ではこれが自分の理解のしかただと思っていて、音からすんなり入れる人や、脳内音読する人とは違う角度から英語を見ているんじゃないかと漠然と感じていたのですが、それをカミングアウトしてみたらこんなにたくさんのコメントを頂いて嬉しいです。

 私からもいろいろコメントしたいことがありますが、今週はまた出張モードに入り、週末までこの店を開けられない可能性が高いです。
 申し訳ないですが、少々お時間をくださいませ。  
Posted by ジアス at 23:59Comments(2)英語

2008年03月16日

私の小説の読み方は珍しいらしい......

 今日、英語の多読仲間と会う機会があり、いろいろ楽しい話題で盛り上がりました。

 その中で自分にとって一番の気づきは、私の小説の読み方はかなり珍しいらしい、ということです。
 しばらく前からうすうす感じていたのですが、私は小説などの物語を読むときは英語でも日本語でも、物語が自分の頭の中で映像化されるのです。書かれている文字から登場人物や背景がなんらかの像を結び、人物が動き始めたり、映画でショットが変わるように視点があちこちに変わったり、そうして物語が進行していきます。
 つまり、文字を文字として意識して理解している、というより、文字を触媒として頭の中でできた動画で物語を理解しているみたいです。

 だから、細かい描写やフレーズは読んだ後もあまり覚えていません。ちょうど映画を見終わった時のようなイメージが残っているような感じで、それに対して自分がどう感じたか、ということは覚えていますが、同じ本を読んだ他の人と話をするとき、相手にある場面の話をされると自分の中の映像の記憶を頼りに思い出す、というような感じになります。
 このBARを始めてから、本の紹介をいろいろしてきましたが、意外にすらすら書けなくて時間を要していました。自分に文才が無いせいかと思ったこともあるのですが、どうやら違ったようです。私の場合、自分の中の映像から印象に残った場面を編集してつなぎあわせ、それをもう一度日本語の文字に起こす、というような面倒な作業になっちゃうんですね。

 今日は酒井先生を含め全部で10人いたのですが、そんな読み方をしているのは私だけで、酒井先生は「英語の多読をしている人はいろいろ知っているけれど、聞いたことがないですね。」とおっしゃられました。酒井先生の提唱する英語の多読3原則の中で、「つまらなかったらやめる」といのがあるのですが、私が英語の小説を読んで、「つまらない(=理解できない)」と感じるのは、文章や単語が難しくてその映像化が切れ切れになり、物語として成立しない場合ですね。「わからないところはとばす」というのもありますが、読めている時というのは文章を100%理解していなくても、私の中で映像がつながっていればOKなのです。

 いつからこうなったかは記憶にないです。子供の頃からではなかった気がしますが、英語の多読を始めてからではないです。大学時代には英語の小説は読めませんでしたが、私の中にその頃夢中で読んだ司馬遼太郎の「龍馬がゆく」だとか、宮本輝の一連の作品の映像の記憶があるので、日本語ですでにこういう読み方をしていた私が、英語の多読三原則「辞書をひかない、わからないところはとばす、つまらなかったらやめる」に出会うと、自然に「わからないところはとばす」ことになっちゃったみたいです。

 ただ、新聞や雑誌、仕事の資料などは別の読み方をしています。これらの場合は自分の目指す情報、キーワードを探す読み方をしているので、斜め読みのコツとしてよく言われるように、キーワードをすばやくサーチして、キーワード同士意味をつなげて速く理解しようとしています。そのときは映像というより、キーワードから論理を組み立てている、という感じですね。
 自分の中で2つの読み方のモードがあって、目的によって無意識にスイッチを切り替えている、そんな感じです。どっちも、自分の中の過去の知識や経験を総動員して文意を理解しようとする、心理学でいう「推論」の働きを活用しているという点ではつながっているような気がしますが.....

 そうすると、リスニング改善に効果があると言われている多聴が私にとって苦痛である理由も説明がついちゃいます。つまり、私は映像を通して理解しようとするので、聞き取れない英語の音だけが聞こえてくると映像化ができずに「つまらなく」なっちゃうんですね。私が多読開始後に映画にはまったのも、その限界を感じて、映像の力を借りてリスニングを改善しよう、と思ったのですね。
 だから、今でも私はリスニングはどちらかと言うと特別な集中力を必要としますし、苦痛です。でも、多読を通じてよくある文章のパターンを自分の中にため込んでいるんで、例えばTOEICのリスニングでも、以前に比べて「あ、たぶんこう来るな」という推論の働きで得点が上がったんだと思います。
 でも、言語の習得、コミュニケーション能力の上達って、日本語でもそういうプロセスを経ると思いませんか?

 でも、こんなやり方の弱点は、いくら英語を読んでも文法的な知識や理解は全くと言っていいぐらい増えません。また、単語を単語として理解しようともしないので、スペルにも注意を払いません。だから、TOEICでも文法に関するセクションは相変わらず苦手ですし、英語を書けません。冠詞や前置詞の規則なんかもほとんど理解できていないと思います。
 スピーキングやライティングの能力を高めたいならば、私にとっては今やっている多読とは別の努力が必要な気がしますが、正直言ってそんな努力をもうやりたくなくなっています。

 私が英語の多読を始めて6年の月日が流れましたが、私にとって英語は目的じゃなく、コミュニケーションの可能性を広げる手段だ、という位置づけは変わりません。ただ、多読を始めた当初は、英語をマスターすれば自分の人生の選択肢が広がる、と思っていたのですが、6年間に自分の仕事のポジションが変わり、自分の人生で目指す目的が変わって、私の中で英語という手段は、今の会社の今のポジションで自分がなすべき仕事や、一人一人性格の違う部下のモチベーションをどうやって上げるか、ということより優先順位が相対的に下がりました。
 それが、私が「英語学習者」という立場から卒業し、SSS英語学習法の掲示板を卒業したくなった本当の理由だと、今日一日ではっきりとわかった気がします。

 でも、英語って使えると自分の可能性、選択肢は広がるし、楽しいのも事実だと思います。これから自立していく自分の娘たちに、自分の経験を通じて、英語ってこうすれば楽しいし理解できるようになるよ、というのを提案することができたらいいなって思います。
 今日の2次会の終盤で熱い意見が飛び交ったこととも通じるのですが、親は子供の人生を親が理解できる枠の中でコントロールしてはいけないし、教育の究極の目的は、子供が自分で考え自立できるようにしてあげること、それこそ親と学校がなすべき一番のことだと信じていますから。

 

  

Posted by ジアス at 23:41Comments(6)英語