2011年12月05日
ちっちの物語その40~再度のCT
毎週B病院の外来に通っていましたので、12月に入ってから改めてCTを撮ってもらうことにしました。10月の余命宣告以来、「治療法が無いのならこれ以上CTを撮る意味がない」と考えていましたが、入院しないでちっちの望むわが家での生活を続けたいと考えている以上、いまちっちの身体に何が起きていて、どういうことが起こる可能性があるのかを私たちが理解しておく必要があるのではないかと考えたからです。
そうして12月15日にCTを撮ってもらったのですが、その結果は、私たちの覚悟を超えるものでした。
元々あった肝臓のそばや下腹部の腫瘍は大きくなっており、それ以外の腫瘍も全身に転移している状態でした。すでに片方の肺が機能しておらず、気道が塞がれているので何かを誤飲して窒息する可能性もあり得る。そして、なんと脳にも腫瘍の転移があるというものでした。そこから導き出される医師の見解は、「血液に異常が何も出ないのが不思議。もういつ何が起こってもおかしくない。」というものでした。
それでも、ちっちは意識もしっかりしていて、時々痛みを訴える以外は普通の毎日を過ごしていました。B病院でそのCTを撮った日ですら、その後で妻とちっちは行きつけの美容院に行って、このところお気に入りになっている頭皮マッサージをしてもらいました。その美容院はちっちの退院後、ウイッグの調整の時には他のお客さんを入れずに、髪の無いちっちのことを優しく気遣ってくれた美容院で、ちっちにもリラックスできる場所でした。
食事も普通に食べられましたので、ちっちのお気に入りのレストランの1つ、中島公園のサンマルクに食事に行ったりもしていました。
しかし、翌週22日の血液検査で、遂に血小板が減少し、輸血の必要があるという話になりました。翌日の23日は祝日でもあり24日か25日に輸血の準備をしておく、という話でしたが、それを聞いたちっちは、
「クリスマスはおうちにいたいから嫌だ!」
と言いました。
そうです。普通の子供にとってクリスマスは特別な日です。先生も折れて、日曜日でしたが輸血は26日ということになりました。
しかし、ちっちに聞こえないように、主治医の先生は、「26日まで持たずに急変する可能性もあります。何が起きても不思議ではありませんから。」と私たちに告げました。
最悪の場合はちっちを看取ることを考えていた私たちにとって、それは非常に大事なことを1つクリアしておかなくてはならない時が来たことを告げました。それは、私たちのもう1人の娘に、その事実を、そしてその覚悟を告げることでした。
そうして12月15日にCTを撮ってもらったのですが、その結果は、私たちの覚悟を超えるものでした。
元々あった肝臓のそばや下腹部の腫瘍は大きくなっており、それ以外の腫瘍も全身に転移している状態でした。すでに片方の肺が機能しておらず、気道が塞がれているので何かを誤飲して窒息する可能性もあり得る。そして、なんと脳にも腫瘍の転移があるというものでした。そこから導き出される医師の見解は、「血液に異常が何も出ないのが不思議。もういつ何が起こってもおかしくない。」というものでした。
それでも、ちっちは意識もしっかりしていて、時々痛みを訴える以外は普通の毎日を過ごしていました。B病院でそのCTを撮った日ですら、その後で妻とちっちは行きつけの美容院に行って、このところお気に入りになっている頭皮マッサージをしてもらいました。その美容院はちっちの退院後、ウイッグの調整の時には他のお客さんを入れずに、髪の無いちっちのことを優しく気遣ってくれた美容院で、ちっちにもリラックスできる場所でした。
食事も普通に食べられましたので、ちっちのお気に入りのレストランの1つ、中島公園のサンマルクに食事に行ったりもしていました。
しかし、翌週22日の血液検査で、遂に血小板が減少し、輸血の必要があるという話になりました。翌日の23日は祝日でもあり24日か25日に輸血の準備をしておく、という話でしたが、それを聞いたちっちは、
「クリスマスはおうちにいたいから嫌だ!」
と言いました。
そうです。普通の子供にとってクリスマスは特別な日です。先生も折れて、日曜日でしたが輸血は26日ということになりました。
しかし、ちっちに聞こえないように、主治医の先生は、「26日まで持たずに急変する可能性もあります。何が起きても不思議ではありませんから。」と私たちに告げました。
最悪の場合はちっちを看取ることを考えていた私たちにとって、それは非常に大事なことを1つクリアしておかなくてはならない時が来たことを告げました。それは、私たちのもう1人の娘に、その事実を、そしてその覚悟を告げることでした。
2011年12月04日
ちっちの物語その39~12月
学習発表会や調理実習はしっかり頑張っていたちっちですが、やはり12月に入ってから日に日に病状が悪化していることは、私たちに食い止めることのできない冷酷な事実でした。
朝も、目が覚めてすぐには起き上がれない状態の時は、妻は湿布を換えたりしながら、無理をせずにちっちが起きられるのを待ちました。ちっちも気分が良くなると学校に行きたがりましたので、歩いて1分の距離ですが、支度をすると妻が学校まで一緒について行きました。ちっちが教室に行くと妻は保健室に行って保健の先生と過ごしたりしていましたが、ちっちはそのことを知ると「私は元気なのにどうして保健室にいるのさ!」と怒ったりしていました。それでも、授業が終わる時間になると妻が学校に迎えに行き、一緒に帰ってくる日も増えていました。
ちっちには相変わらず再発のことは何も告げていませんでした。冬になって気候の変化や菌に弱くなっているから、疲れやすくなっているので、無理せず休む時は休みながら、しっかり食事と睡眠をとろうね、というような感じで励ましていました。ちっちは本当に私たちの言うことを100%信じているのだろうか?と思いはありましたが、本当のことを言ったところでちっちに絶望を与えることはあっても希望を与えることはないと考え、私たちの言葉をちっちが信じていることを、信じるしかないと思っていました。
血液検査をしても血液に異常が無いあいだは、入院の必要も無い、というのが主治医の先生の見解でしたが、おなかや脇腹は明らかに腫瘍のせいか膨らんできており、痛みもあるようでした。湿布を貼ると幾分治まるようでしたが、以前はよくちっちのことをだっこしていたのに、ちっちが痛がってだっこを避けるようになったのはとても寂しいことでした。
それでも午後から夜にかけてはいつも病状は落ち着いているので、私やちっちの姉が会社や中学校から帰ってきてからは、以前と同じようにちっちと一緒に遊んだりお風呂に入ったり、夕食を一緒に食べて寝るまでの時間はみんなで楽しい会話ができる時間でした。普通ならば入院していてもおかしくない状態で、ちっちの望む普通の毎日を過ごせていることは、かけがえのない日々でした。
朝も、目が覚めてすぐには起き上がれない状態の時は、妻は湿布を換えたりしながら、無理をせずにちっちが起きられるのを待ちました。ちっちも気分が良くなると学校に行きたがりましたので、歩いて1分の距離ですが、支度をすると妻が学校まで一緒について行きました。ちっちが教室に行くと妻は保健室に行って保健の先生と過ごしたりしていましたが、ちっちはそのことを知ると「私は元気なのにどうして保健室にいるのさ!」と怒ったりしていました。それでも、授業が終わる時間になると妻が学校に迎えに行き、一緒に帰ってくる日も増えていました。
ちっちには相変わらず再発のことは何も告げていませんでした。冬になって気候の変化や菌に弱くなっているから、疲れやすくなっているので、無理せず休む時は休みながら、しっかり食事と睡眠をとろうね、というような感じで励ましていました。ちっちは本当に私たちの言うことを100%信じているのだろうか?と思いはありましたが、本当のことを言ったところでちっちに絶望を与えることはあっても希望を与えることはないと考え、私たちの言葉をちっちが信じていることを、信じるしかないと思っていました。
血液検査をしても血液に異常が無いあいだは、入院の必要も無い、というのが主治医の先生の見解でしたが、おなかや脇腹は明らかに腫瘍のせいか膨らんできており、痛みもあるようでした。湿布を貼ると幾分治まるようでしたが、以前はよくちっちのことをだっこしていたのに、ちっちが痛がってだっこを避けるようになったのはとても寂しいことでした。
それでも午後から夜にかけてはいつも病状は落ち着いているので、私やちっちの姉が会社や中学校から帰ってきてからは、以前と同じようにちっちと一緒に遊んだりお風呂に入ったり、夕食を一緒に食べて寝るまでの時間はみんなで楽しい会話ができる時間でした。普通ならば入院していてもおかしくない状態で、ちっちの望む普通の毎日を過ごせていることは、かけがえのない日々でした。
2011年11月27日
ちっちの物語その38~ちっちの将来の夢
私の将来の夢は、料理の仕事をしたいです。料理の仕事というと、栄養士、料理人、食べ歩きリポーター、料理学校の先生など、色々な物があるので、まだ漠然としているのですが、料理ができる仕事がしたいです。
私と料理の出会いは、小学二年生の時です。母親が仕事で日曜日のお昼はつねにいなかったため、私の姉に、そばをゆでて食べるように言っていました。しかし、そのうちに姉はそばをゆでるのがめんどうくさくなり、私がやるようになりました。私はそれがいやではなく、むしろそれがきっかけで料理に興味を持ちました。その後、私がお昼ごはんを作っていることを知った母親は、私が料理をすることが好きと聞いて、一緒に料理をするようになりました。今まで作ってきた物は簡単な物だと、カレーライス、クリームシチュー、グラタン、ぎょうざなどを作り、手のこんだ物だと、生春巻、パエリア、エビカツ、焼きぶたなどを作りました、
今まで料理の話をずっとしましたが、おかし作りも同じくらい好きです。パティシエなどの仕事もいいなあ、と思っています。
私とおかし作りの出会いもまた小学二年生ぐらいの時で、最初はまぜるだけでできるようなあんにんどうふのセットを母親が買ってきてくれて作るといった感じでした。学年が上がるにつれて難しいものも作れるようになり、最近では、一からチーズケーキを作ったりもしています。
私は料理が大好きで、料理の仕事をしたいと思っているので、これからもたくさん色々な料理に挑戦して、夢に近づいていけたらいいな、と思っています。
この文章が、ちっちの卒業アルバムの文集のところに載っている、「私と料理」というちっちの最後の作文です。12月4日の学習発表会のあと、15日に家庭科の調理実習の授業がありました。作る料理はグループである程度自由に決めてよかったので、ちっちは数日前から何にするか楽しそうに悩んでいました。この作文にもあるようにちっちは料理が好きでしたし、グループで主導して作れる立場でもありましたからね。
当日は、魚のムニエルと野菜炒めを作り、うまくできた、おいしかったと満面の笑みで会社から帰った私に報告してくれました。
この家庭科実習の授業の写真が残っていて、それは、卒業アルバムとは別に、学校行事の写真を撮ってくれていた先生が、後日、ちっちの写っている写真だけをなんと1冊の本にして、「きらめく日々に」というタイトルをつけ、立派に製本して私たちにプレゼントしてくださったのです。
卒業アルバムの最初のページの集合写真の下に、
今日の君たちを 未来の君たちが見るために アルバムはある
今の仲間達の声や その季節の香りまで どこかにかくされている
というキャプションが書かれていることに今日、気付きました。
ちっちは結局この卒業アルバムを見ることはありませんでしたが、私たちは、卒業アルバム、そして「きらめく日々に」のアルバムを見るたびに、ちっちの声や、ちっちがいた日々の香りを、思い出します。
私と料理の出会いは、小学二年生の時です。母親が仕事で日曜日のお昼はつねにいなかったため、私の姉に、そばをゆでて食べるように言っていました。しかし、そのうちに姉はそばをゆでるのがめんどうくさくなり、私がやるようになりました。私はそれがいやではなく、むしろそれがきっかけで料理に興味を持ちました。その後、私がお昼ごはんを作っていることを知った母親は、私が料理をすることが好きと聞いて、一緒に料理をするようになりました。今まで作ってきた物は簡単な物だと、カレーライス、クリームシチュー、グラタン、ぎょうざなどを作り、手のこんだ物だと、生春巻、パエリア、エビカツ、焼きぶたなどを作りました、
今まで料理の話をずっとしましたが、おかし作りも同じくらい好きです。パティシエなどの仕事もいいなあ、と思っています。
私とおかし作りの出会いもまた小学二年生ぐらいの時で、最初はまぜるだけでできるようなあんにんどうふのセットを母親が買ってきてくれて作るといった感じでした。学年が上がるにつれて難しいものも作れるようになり、最近では、一からチーズケーキを作ったりもしています。
私は料理が大好きで、料理の仕事をしたいと思っているので、これからもたくさん色々な料理に挑戦して、夢に近づいていけたらいいな、と思っています。
この文章が、ちっちの卒業アルバムの文集のところに載っている、「私と料理」というちっちの最後の作文です。12月4日の学習発表会のあと、15日に家庭科の調理実習の授業がありました。作る料理はグループである程度自由に決めてよかったので、ちっちは数日前から何にするか楽しそうに悩んでいました。この作文にもあるようにちっちは料理が好きでしたし、グループで主導して作れる立場でもありましたからね。
当日は、魚のムニエルと野菜炒めを作り、うまくできた、おいしかったと満面の笑みで会社から帰った私に報告してくれました。
この家庭科実習の授業の写真が残っていて、それは、卒業アルバムとは別に、学校行事の写真を撮ってくれていた先生が、後日、ちっちの写っている写真だけをなんと1冊の本にして、「きらめく日々に」というタイトルをつけ、立派に製本して私たちにプレゼントしてくださったのです。
卒業アルバムの最初のページの集合写真の下に、
今日の君たちを 未来の君たちが見るために アルバムはある
今の仲間達の声や その季節の香りまで どこかにかくされている
というキャプションが書かれていることに今日、気付きました。
ちっちは結局この卒業アルバムを見ることはありませんでしたが、私たちは、卒業アルバム、そして「きらめく日々に」のアルバムを見るたびに、ちっちの声や、ちっちがいた日々の香りを、思い出します。
2011年11月20日
ちっちの物語その37~学習発表会
先週の札幌は遅い初雪が降ったと思ったら、その数日後に一晩のうちに雪が積もり、そしてこの週末には雨が降って積もっていた雪を全て洗い流してしまいました。
でも、今夜から明日にかけての天気予報はまた雪で、こうやって少しずつ冬に近づいていきます。
でも、去年の年末はほとんど雪がありませんでした。元旦にも雪は積もっておらず、ちっちが旅立った正月明けに一気に大雪が降って積もったことをよく覚えています。
さて、そんな去年の冬も、私たちの願いが少しは通じたのか、12月の学習発表会の日が近づいてきました。本番は4日ですが、その前日、3日に児童公開日というのがあります。
学習発表会の本番は土曜日で、体育館の観客席は保護者や来客でいっぱいになります。そして、学年ごとに出し物の時間が決まっており、子供たちはその出し物の時間にあわせて登下校します。つまり、当日には子供たちは他の学年の出し物を観る事ができないわけで、そのために前日に、児童公開日という日を設けて、全ての出し物を観ることができるようになっています。
通常は児童公開日は保護者には公開されないのですが、私たち夫婦は学校のはからいで6年生の劇の時間に招かれました。劇の最後のちっちの出番と、その後のみんなで歌う歌の場面では、病気のことなど微塵も感じさせないような、とても元気な声を出していました。
私たちは、この日と、そしてその翌日の本番のちっちの姿を、しっかりと目に焼き付けることができました。そして、去年の学習発表会に出られなかった分まで、いっぱい頑張ったちっちのことを、家に帰ってきてからいっぱいほめてあげることも忘れませんでした。
でも、今夜から明日にかけての天気予報はまた雪で、こうやって少しずつ冬に近づいていきます。
でも、去年の年末はほとんど雪がありませんでした。元旦にも雪は積もっておらず、ちっちが旅立った正月明けに一気に大雪が降って積もったことをよく覚えています。
さて、そんな去年の冬も、私たちの願いが少しは通じたのか、12月の学習発表会の日が近づいてきました。本番は4日ですが、その前日、3日に児童公開日というのがあります。
学習発表会の本番は土曜日で、体育館の観客席は保護者や来客でいっぱいになります。そして、学年ごとに出し物の時間が決まっており、子供たちはその出し物の時間にあわせて登下校します。つまり、当日には子供たちは他の学年の出し物を観る事ができないわけで、そのために前日に、児童公開日という日を設けて、全ての出し物を観ることができるようになっています。
通常は児童公開日は保護者には公開されないのですが、私たち夫婦は学校のはからいで6年生の劇の時間に招かれました。劇の最後のちっちの出番と、その後のみんなで歌う歌の場面では、病気のことなど微塵も感じさせないような、とても元気な声を出していました。
私たちは、この日と、そしてその翌日の本番のちっちの姿を、しっかりと目に焼き付けることができました。そして、去年の学習発表会に出られなかった分まで、いっぱい頑張ったちっちのことを、家に帰ってきてからいっぱいほめてあげることも忘れませんでした。
2011年11月05日
ちっちの物語その36~覚悟
このころ、私たち夫婦はある覚悟を決めていました。
それは、どうしても信じたくないことでしたが、どうしてもちっちを救うことができないのであれば、1日でも長くちっちが大好きなわが家で過ごすことができるようにしてあげよう。そのためにできるだけのことを私たちはちっちのためにしてあげよう、ということでした。
最悪の場合、わが家でちっちを看取る覚悟を、子供たちにはまだ告げないままに、私たち夫婦は決めました。
私もいざとなったら仕事を当分の間休む覚悟を決め、ちっちの治療法が無いと宣告されたということを職場の上司と人事の担当役員に話しました。そして、いざとなったらしばらく休む可能性があること、その場合でも極力業務に差し支えないようにあらゆる手を打つこと、そしてそれまでは月に1~2回のペースで行っていた泊りがけの出張を、日帰り出張かテレビ会議で済ませる了解を得ました。また、部下にも事実を話し、当分の間残業せずに定時で帰るという宣言をし、万一私が急に休んでも仕事が差し支えないように、進行中の業務の情報を全て部下に公開して、「私が不在でも仕事を止めないように段取りを自分たちで考えろ」と言い、万一の時は介護のために当分の間不在にしても差し支えのないような準備態勢をとりました。
そして、毎晩定時で帰っては、「ただいま!」と家に帰った時に「おかえり!」と言ってくれるちっちの顔を見て安心していました。
家族4人で毎晩夕食を食べ、その後はテレビを見ながら、ちっちの好きなボードゲームやカードゲームで遊ぶことが多くなりました。けっこうわが家にはボードゲームやカードゲームはたくさんあるのですが、秋になってトイザラスで見かけて買ってきたポケモンの新しいボードゲームや、モノポリーのカードゲーム、立体四目並べなどをよくやっていました。
ちっちは朝は体調が悪くても、午後から夕方にかけてよくなるので、私が帰宅する頃にはいつも笑顔で、夕食も毎晩しっかり食べていました。食欲があるということはまだまだ大丈夫と心に言い聞かせながらも、このまま時間が止まってほしいとすら、思うような毎日が過ぎていくのでした。
それは、どうしても信じたくないことでしたが、どうしてもちっちを救うことができないのであれば、1日でも長くちっちが大好きなわが家で過ごすことができるようにしてあげよう。そのためにできるだけのことを私たちはちっちのためにしてあげよう、ということでした。
最悪の場合、わが家でちっちを看取る覚悟を、子供たちにはまだ告げないままに、私たち夫婦は決めました。
私もいざとなったら仕事を当分の間休む覚悟を決め、ちっちの治療法が無いと宣告されたということを職場の上司と人事の担当役員に話しました。そして、いざとなったらしばらく休む可能性があること、その場合でも極力業務に差し支えないようにあらゆる手を打つこと、そしてそれまでは月に1~2回のペースで行っていた泊りがけの出張を、日帰り出張かテレビ会議で済ませる了解を得ました。また、部下にも事実を話し、当分の間残業せずに定時で帰るという宣言をし、万一私が急に休んでも仕事が差し支えないように、進行中の業務の情報を全て部下に公開して、「私が不在でも仕事を止めないように段取りを自分たちで考えろ」と言い、万一の時は介護のために当分の間不在にしても差し支えのないような準備態勢をとりました。
そして、毎晩定時で帰っては、「ただいま!」と家に帰った時に「おかえり!」と言ってくれるちっちの顔を見て安心していました。
家族4人で毎晩夕食を食べ、その後はテレビを見ながら、ちっちの好きなボードゲームやカードゲームで遊ぶことが多くなりました。けっこうわが家にはボードゲームやカードゲームはたくさんあるのですが、秋になってトイザラスで見かけて買ってきたポケモンの新しいボードゲームや、モノポリーのカードゲーム、立体四目並べなどをよくやっていました。
ちっちは朝は体調が悪くても、午後から夕方にかけてよくなるので、私が帰宅する頃にはいつも笑顔で、夕食も毎晩しっかり食べていました。食欲があるということはまだまだ大丈夫と心に言い聞かせながらも、このまま時間が止まってほしいとすら、思うような毎日が過ぎていくのでした。
2011年10月30日
ちっちの物語その35~大画面のテレビ
11月の半ば過ぎからは、ちっちが朝痛みを訴えることが多くなりました。
私は通常通り仕事をしていましたが、午前中は調子が悪く、早起きすることがなくなってきました。
私と上の娘が会社と学校にそれぞれ出かけた後で、痛みを訴えるちっちに、妻が湿布を貼り替えたり、光線(コウケントーのことです)をあてたりしながら、病院でもらった痛み止めを飲むことが多くなりました。
もちろん、病気の進行は子供たちには話していませんから、その痛み止めも「弱った筋肉を補強する薬」という嘘をついて飲ませていました。そうして、痛みが治まってくると、ちっちは学校に行きたがりますので、妻がちっちに付き添って一緒に学校に行く、という日々になりました。
わが家から小学校までは歩いて1分程度の至近距離なのですが、それでもちっちは妻が一緒に行くと安心していました。そしてちっちが教室に入ると、妻はそのまま保健室に向かい、養護の先生と一緒に待機していることが多くなりました。家が近いので帰っても全然差し支えないのですが、妻も家で一人で待っているより話し相手がいるほうがよかったのでしょう。
このような状況になると、奇跡を信じながらも、今ちっちのためにできることは何か、先延ばしせずにできるだけのことをしようと思いました。まず最初に思いついたのはわが家のテレビでした。
地デジ化を翌年夏に控えながら、わが家のテレビは古い24型のブラウン管のテレビでした。買い換える必要があるのはわかっていましたが、いまのテレビが壊れているわけではないので、ぎりぎりまで先延ばしすることにしていました。ちっちは病院でチデジカがテレビに出てくるたびに、「うちのテレビも買い換えなきゃね」と言っていましたので、まずはちっちの心配事を解消し、入院中は小さな液晶テレビをずっと観ていたちっちに、退院した時になんでもっと早く大きなテレビを買わなかったのかとすら思いました。
そうして、ちっちが痛みを訴えたその週の週末、私は早速近所の家電量販店に行きました。昨年の11月の週末は、エコポイントの関係で電気屋さんは客であふれていて、整理券をもらわないと説明も受けられず購入もできないような盛況ぶりでしたが、1時間待ちで順番を待ち、その間に目星をつけたテレビはなんと1ヶ月待ちでした。
「そんなには待てない」と言って、少し予算オーバーでしたが在庫があった、予定より大きい42型のテレビを注文し、翌々日には配達されました。
学校から帰ってきたちっちは大喜びです。テレビをつけて大画面にはしゃぎ、Wiiのゲームを大喜びで遊んでいたのが忘れられません。
私は通常通り仕事をしていましたが、午前中は調子が悪く、早起きすることがなくなってきました。
私と上の娘が会社と学校にそれぞれ出かけた後で、痛みを訴えるちっちに、妻が湿布を貼り替えたり、光線(コウケントーのことです)をあてたりしながら、病院でもらった痛み止めを飲むことが多くなりました。
もちろん、病気の進行は子供たちには話していませんから、その痛み止めも「弱った筋肉を補強する薬」という嘘をついて飲ませていました。そうして、痛みが治まってくると、ちっちは学校に行きたがりますので、妻がちっちに付き添って一緒に学校に行く、という日々になりました。
わが家から小学校までは歩いて1分程度の至近距離なのですが、それでもちっちは妻が一緒に行くと安心していました。そしてちっちが教室に入ると、妻はそのまま保健室に向かい、養護の先生と一緒に待機していることが多くなりました。家が近いので帰っても全然差し支えないのですが、妻も家で一人で待っているより話し相手がいるほうがよかったのでしょう。
このような状況になると、奇跡を信じながらも、今ちっちのためにできることは何か、先延ばしせずにできるだけのことをしようと思いました。まず最初に思いついたのはわが家のテレビでした。
地デジ化を翌年夏に控えながら、わが家のテレビは古い24型のブラウン管のテレビでした。買い換える必要があるのはわかっていましたが、いまのテレビが壊れているわけではないので、ぎりぎりまで先延ばしすることにしていました。ちっちは病院でチデジカがテレビに出てくるたびに、「うちのテレビも買い換えなきゃね」と言っていましたので、まずはちっちの心配事を解消し、入院中は小さな液晶テレビをずっと観ていたちっちに、退院した時になんでもっと早く大きなテレビを買わなかったのかとすら思いました。
そうして、ちっちが痛みを訴えたその週の週末、私は早速近所の家電量販店に行きました。昨年の11月の週末は、エコポイントの関係で電気屋さんは客であふれていて、整理券をもらわないと説明も受けられず購入もできないような盛況ぶりでしたが、1時間待ちで順番を待ち、その間に目星をつけたテレビはなんと1ヶ月待ちでした。
「そんなには待てない」と言って、少し予算オーバーでしたが在庫があった、予定より大きい42型のテレビを注文し、翌々日には配達されました。
学校から帰ってきたちっちは大喜びです。テレビをつけて大画面にはしゃぎ、Wiiのゲームを大喜びで遊んでいたのが忘れられません。
2011年10月29日
ちっちの物語その34~学習発表会の練習
今日はちっちの通っていた小学校の学習発表会でした。
学習発表会というのは、札幌市内の小学校で秋頃に行われている行事です。学年で演劇や歌などの出し物を保護者の前で発表するという一大行事で、運動会と並んで子供たちの両親や祖父母までもがこぞって学校に出かけていきます。
今日も、わが家の前を多くの家族連れが朝から行き来しています。
通常は学習発表会はだいたいこの時期なのですが、昨年は先生方の研修の都合で12月4日でした。去年の6年生は桃太郎の話をパロディにした「桃次郎の冒険」という劇が出し物で、10月頃に台本が配られ、それぞれの子供たちが希望の役を申告してのオーディションが行われ、配役が決まった後は授業の中で練習が行われていました。
ちっちは毎年の学習発表会には本当に熱心に、そして真剣に取り組んでいました。
台詞は家で必ず練習してしっかりと覚え、本番では声が聞こえづらい子供も多い中で、ひときわ大きな声でしっかりと演じていました。
東京単身赴任中も私は必ず学習発表会にあわせて札幌に帰るようにしており、娘たちの毎年の出し物を楽しみにしていました。ちっちは4年生の時には主役級の役をしっかりとこなしていましたが、5年生の時は入院していて参加していません。それだけに、6年生の今年は発表会をとても楽しみにしていました。
ただ、まだ授業も体調をみながら調子の良い時だけ無理せずに出る、という状態で、練習も必ず毎回出られるとは限らない状態だったので、今回の役はあまり身体に負担がかからないように、出番は最後の締めのところだけになりました。とはいえ、劇の締めを飾る最後の長い台詞を任されたので、ちっちも張り切って練習していました。
そんなさなかの病状の急変でした。
翌日、血液検査の結果を知らせる電話が病院からあったのですが、それはなんと、「血液には何も数値の異常が出ていない」という内容でした。
白血球や血小板などといった血液に異常が出ていないのであれば、痛みさえコントロールできているのであれば必ずしも入院させる必要ない、という結論でした。腫瘍が原因と思われるお腹の膨らみなどがあるにも関わらず、血液に何も異常がないのは奇跡的らしいのですが、血液に問題がない以上、まだ奇跡が起こせる可能性があると思いました。
ただし、病院の先生の見解は厳しい状態に変わりはないということで、12月4日の学習発表会本番までは持たないかも知れないということも伝えられました。
「医者は最悪のことしか言わない。諦めたら起きる奇跡も起こらない。奇跡を起こすためには決して諦めない。」がその頃の私たち夫婦の合言葉でしたが、このようなことが起きたことは学校の先生には伝えました。
その翌週の週明けには、予定を変更して「学習発表会の通し練習」が前倒しで行われることになりました。それで、ちっちは学習発表会の劇の全容を本番の3週間前に通しで観る事ができたのです。
3週間後にちっちが舞台の上で演じる姿を観たい、というのが私たちの次の目標になりました。普通の家庭では、3週間後は当たり前のようにやってくることを疑いもしないはずなのですが、私たちにとってはその当たり前の1日1日がとても貴重なものに感じられました。
学習発表会というのは、札幌市内の小学校で秋頃に行われている行事です。学年で演劇や歌などの出し物を保護者の前で発表するという一大行事で、運動会と並んで子供たちの両親や祖父母までもがこぞって学校に出かけていきます。
今日も、わが家の前を多くの家族連れが朝から行き来しています。
通常は学習発表会はだいたいこの時期なのですが、昨年は先生方の研修の都合で12月4日でした。去年の6年生は桃太郎の話をパロディにした「桃次郎の冒険」という劇が出し物で、10月頃に台本が配られ、それぞれの子供たちが希望の役を申告してのオーディションが行われ、配役が決まった後は授業の中で練習が行われていました。
ちっちは毎年の学習発表会には本当に熱心に、そして真剣に取り組んでいました。
台詞は家で必ず練習してしっかりと覚え、本番では声が聞こえづらい子供も多い中で、ひときわ大きな声でしっかりと演じていました。
東京単身赴任中も私は必ず学習発表会にあわせて札幌に帰るようにしており、娘たちの毎年の出し物を楽しみにしていました。ちっちは4年生の時には主役級の役をしっかりとこなしていましたが、5年生の時は入院していて参加していません。それだけに、6年生の今年は発表会をとても楽しみにしていました。
ただ、まだ授業も体調をみながら調子の良い時だけ無理せずに出る、という状態で、練習も必ず毎回出られるとは限らない状態だったので、今回の役はあまり身体に負担がかからないように、出番は最後の締めのところだけになりました。とはいえ、劇の締めを飾る最後の長い台詞を任されたので、ちっちも張り切って練習していました。
そんなさなかの病状の急変でした。
翌日、血液検査の結果を知らせる電話が病院からあったのですが、それはなんと、「血液には何も数値の異常が出ていない」という内容でした。
白血球や血小板などといった血液に異常が出ていないのであれば、痛みさえコントロールできているのであれば必ずしも入院させる必要ない、という結論でした。腫瘍が原因と思われるお腹の膨らみなどがあるにも関わらず、血液に何も異常がないのは奇跡的らしいのですが、血液に問題がない以上、まだ奇跡が起こせる可能性があると思いました。
ただし、病院の先生の見解は厳しい状態に変わりはないということで、12月4日の学習発表会本番までは持たないかも知れないということも伝えられました。
「医者は最悪のことしか言わない。諦めたら起きる奇跡も起こらない。奇跡を起こすためには決して諦めない。」がその頃の私たち夫婦の合言葉でしたが、このようなことが起きたことは学校の先生には伝えました。
その翌週の週明けには、予定を変更して「学習発表会の通し練習」が前倒しで行われることになりました。それで、ちっちは学習発表会の劇の全容を本番の3週間前に通しで観る事ができたのです。
3週間後にちっちが舞台の上で演じる姿を観たい、というのが私たちの次の目標になりました。普通の家庭では、3週間後は当たり前のようにやってくることを疑いもしないはずなのですが、私たちにとってはその当たり前の1日1日がとても貴重なものに感じられました。
2011年10月26日
ちっちの物語その33~痛み
しかし、恐れていたことはついに起きてしまいました。
11月10日の朝です。
ちっちが、背中から胸にかけて痛みを訴えました。
それもこれまで経験したことのないような痛みで、大声をあげたのです。
とりあえず家にあった鎮痛剤入りの湿布を貼りましたが、気休めでしかないことは私たちにはよくわかっていました。
その場ですぐにB病院に連絡しました。そして妻が病院に行き、オキシコドンという痛み止めの薬をもらって帰ってきました。薬を飲むと、痛みも少し和らいだようでした。
この薬は、モルヒネほどではありませんが、麻薬性の痛み止めで、この薬ができたことで通院でも痛みをコントロールすることができるようになったという薬です。その通り、効果はあったようです。
しかし、この出来事は、どんな検査結果を見せられようが、ちっちの元気な姿を見ている限りそれが嘘に思える、という私たちの希望を打ち砕きました。
翌々日の12日の金曜日、主治医の先生の外来の日に、妻はちっちを連れてB病院を訪れました。先生は一昨日の出来事を聞いており、血液検査をし、ちっちの腹部に膨らみがあることを確認して、「病状は確実に進行している。おそらく血液にも異常な数値が出ていると思うので、できればすぐに入院したほうがよいと思うし、遠方のご親戚には連絡をしたほうがよいと思います。」とまで言われてしまいました。
しかし、ちっちは入院を嫌がりましたし、週末でもあったので、「例え入院するにしても週明けからにしてほしい。」と妻は無理やりに頼み込んで家に連れて帰ってきました。 この数日、朝はかなり痛みを訴えますが、昼近くになると落ち着き、午後には元気になって夕食はみんなと一緒に普通に食べることができていました。
この週末がひょっとしたら家族で家で過ごせる最後の週末になるかも知れない、そんなことはまだ信じたくありませんでした。
11月10日の朝です。
ちっちが、背中から胸にかけて痛みを訴えました。
それもこれまで経験したことのないような痛みで、大声をあげたのです。
とりあえず家にあった鎮痛剤入りの湿布を貼りましたが、気休めでしかないことは私たちにはよくわかっていました。
その場ですぐにB病院に連絡しました。そして妻が病院に行き、オキシコドンという痛み止めの薬をもらって帰ってきました。薬を飲むと、痛みも少し和らいだようでした。
この薬は、モルヒネほどではありませんが、麻薬性の痛み止めで、この薬ができたことで通院でも痛みをコントロールすることができるようになったという薬です。その通り、効果はあったようです。
しかし、この出来事は、どんな検査結果を見せられようが、ちっちの元気な姿を見ている限りそれが嘘に思える、という私たちの希望を打ち砕きました。
翌々日の12日の金曜日、主治医の先生の外来の日に、妻はちっちを連れてB病院を訪れました。先生は一昨日の出来事を聞いており、血液検査をし、ちっちの腹部に膨らみがあることを確認して、「病状は確実に進行している。おそらく血液にも異常な数値が出ていると思うので、できればすぐに入院したほうがよいと思うし、遠方のご親戚には連絡をしたほうがよいと思います。」とまで言われてしまいました。
しかし、ちっちは入院を嫌がりましたし、週末でもあったので、「例え入院するにしても週明けからにしてほしい。」と妻は無理やりに頼み込んで家に連れて帰ってきました。 この数日、朝はかなり痛みを訴えますが、昼近くになると落ち着き、午後には元気になって夕食はみんなと一緒に普通に食べることができていました。
この週末がひょっとしたら家族で家で過ごせる最後の週末になるかも知れない、そんなことはまだ信じたくありませんでした。
2011年10月22日
ちっちの物語その32~学校の先生
ちっちは相変わらず元気に学校に通っていましたが、親としては万一のことを考えると、学校の先生には病院で受けた説明を話しておいたほうがよいと考えました。
病状の進行の展開が読めず、何が起きても不思議はないと言われていましたので、いきなり学校で倒れる可能性もあり得たからです。
そこで、校長先生と教頭先生、担任の先生とその隣のクラスの先生(6年生は2クラスでした)、そして保健室の先生には本当のことを伝えました。
どの先生も以前からちっちの病気のことを本当に心配してくれていましたので、そのことを伝えるのは本当に辛いことでしたが、どの先生も今までと変わらずに接してくれることを約束してくれました。
それは、ちっちが一番望んでいることだからです。クラスの他の子供たちにも今まで通りちっちに接してほしかったので、ちっちは今までと変わらぬ日常の学校生活を送ることができました。
校長先生はご自身も病気で長い入院をされた経験がおありでしたので、ちっちが入院した最初からずっと励ましていただいていましたし、担任の先生も実はちっちの姉の担任を4年間持ってくれていた先生で、ちっちの復帰前の自宅療養中も学校帰りに毎日のようにわが家に寄って励ましてくれていました。そして、保健室の先生は、まだちっちが発病する前の4年生の頃から、クラスで悩んでいたちっちが保健室に寄った時にはいつも優しく迎えてくれていました。
この後も、ちっちを、そして私たち家族を、最後までこの小学校の先生方は支えてくださいました。そのおかげで、ちっちはこの後、病状が少しずつ悪化していく中でも、2学期の終業式まで学校に通い続けることができたと思います。
ちっちがこの学校のこの学年で過ごせたことは、本当に幸せなことだったんじゃないかと思います。卒業式のことを思い返しても、あと3ヶ月、この学年で卒業させてあげたかったと、本当に思います。
また、養護学校の先生方にもお世話になりました。A病院では病室で、B病院では小児科病棟の院内学級で、入院中ちっちはどちらでも先生に会うのを楽しみにしていました。ちっちが退院してからの自宅療養中にもわが家に来てくださったりして、ちっちは「病気になったのは嫌だったけど先生方に出会えたのはよかった」と言っていました。
10月の下旬に養護学校の文化祭があり、そこにちっちを連れて行ったのですが、そこでやはり病状の話をしました。
養護学校の先生方もちっちに何ができるかと考えられたのでしょう。その数日後、突然、ハロウィンの扮装をしてわが家に来てくださったのです。ちっちは驚き、そして大喜びでした。
ちっちにとって、素敵な先生方にめぐりあうことができたことは、短い生涯の中でも幸せなことだったのではないかと思います。
病状の進行の展開が読めず、何が起きても不思議はないと言われていましたので、いきなり学校で倒れる可能性もあり得たからです。
そこで、校長先生と教頭先生、担任の先生とその隣のクラスの先生(6年生は2クラスでした)、そして保健室の先生には本当のことを伝えました。
どの先生も以前からちっちの病気のことを本当に心配してくれていましたので、そのことを伝えるのは本当に辛いことでしたが、どの先生も今までと変わらずに接してくれることを約束してくれました。
それは、ちっちが一番望んでいることだからです。クラスの他の子供たちにも今まで通りちっちに接してほしかったので、ちっちは今までと変わらぬ日常の学校生活を送ることができました。
校長先生はご自身も病気で長い入院をされた経験がおありでしたので、ちっちが入院した最初からずっと励ましていただいていましたし、担任の先生も実はちっちの姉の担任を4年間持ってくれていた先生で、ちっちの復帰前の自宅療養中も学校帰りに毎日のようにわが家に寄って励ましてくれていました。そして、保健室の先生は、まだちっちが発病する前の4年生の頃から、クラスで悩んでいたちっちが保健室に寄った時にはいつも優しく迎えてくれていました。
この後も、ちっちを、そして私たち家族を、最後までこの小学校の先生方は支えてくださいました。そのおかげで、ちっちはこの後、病状が少しずつ悪化していく中でも、2学期の終業式まで学校に通い続けることができたと思います。
ちっちがこの学校のこの学年で過ごせたことは、本当に幸せなことだったんじゃないかと思います。卒業式のことを思い返しても、あと3ヶ月、この学年で卒業させてあげたかったと、本当に思います。
また、養護学校の先生方にもお世話になりました。A病院では病室で、B病院では小児科病棟の院内学級で、入院中ちっちはどちらでも先生に会うのを楽しみにしていました。ちっちが退院してからの自宅療養中にもわが家に来てくださったりして、ちっちは「病気になったのは嫌だったけど先生方に出会えたのはよかった」と言っていました。
10月の下旬に養護学校の文化祭があり、そこにちっちを連れて行ったのですが、そこでやはり病状の話をしました。
養護学校の先生方もちっちに何ができるかと考えられたのでしょう。その数日後、突然、ハロウィンの扮装をしてわが家に来てくださったのです。ちっちは驚き、そして大喜びでした。
ちっちにとって、素敵な先生方にめぐりあうことができたことは、短い生涯の中でも幸せなことだったのではないかと思います。
2011年10月15日
ちっちの物語その31~食生活を変えること
健康家族モードに入ったのはもう1つ伏線があって、やはりこの頃、藁にもすがる思いだった私達夫婦は、ネットで見つけたとある治療院を訪ねていたのでした。
その治療院のウェブサイトには、西洋医学的な治療で他に手立てがないと言われた方でもまだ治る道がある、ということが書かれていました。要は、食事療法や、びわの葉温灸などの自然療法で身体が本来持っている自然治癒力を高めてがんを治す、ということです。
腫瘍の転移や進行を、抗がん剤や放射線で止めるということができなくなった今、このような自然療法でも一縷の望みがあるのであればと思い、この治療院に電話してみました。そうすると、まず一度親御さんだけでも来院してご相談しましょう、ということになり、私達夫婦はこの治療院を訪ねたのです。
治療院は街の中のビルの1階にあり、入り口には自然食のカフェの看板が出ていました。その奥が治療院になっているようで、やせ気味で作務衣を着た、いかにも玄米菜食をやっていそうな風貌の男性が迎えてくれました。
約束の時間より少し早く着いたので、前の治療が終わるまでの間少し待つことになりました。自然療法や玄米菜食の本をぱらぱらとめくりながら待つことしばし、先ほどの男性が現れました。
彼は、毎日の食事から様々な毒素を取り込んでいるので、治療と並行して食事を改める必要があるということを力説されました。それは確かに一理あると考えていましたので、私たちも少々大変になるけれど、ちっちのためなら食事を改めることも考えて話を聞いていました。
その話の流れの中で、彼が、
「小学生のお子さんなら学校給食があると思いますが、あれが良い食生活の大きな邪魔です。それもできれば避けてください。」と非常に苦々しげな顔をして言ったのです。
そこで私の意識がはっと覚めました。
長い入院生活を過ごしたちっちにとっては、毎日学校に行ってみんなと同じ時間を過ごすことが一番大事な心の支えになっていて、それは給食の時間も含めてではないかと思ったのです。ちっちにいつもと同じ生活をさせてあげたいと考えている以上、家での食事を少しでも身体にいいものにすることはちっちが納得しても、きっと給食の代わりに玄米菜食の弁当を持っていくのは嫌がるだろうと思いました。きっと、そうすることを強いると、もっと大事なものを失くすような気がする、直感的にそう思ったのですが、どうやら妻も同じように思ったようでした。
とりあえず、がんに効くといわれるびわの葉のお茶(北海道ではびわが生えないのでびわの葉自体手に入らないのです)と、風呂に入れるびわの葉だけを買って、治療院を後にしました。
帰りのクルマの中で、妻と話したことは、「今のちっちの心の支えになっていることを否定することはできない。少なくとも家で私たちがちっちに何をしてあげられるか、家の食事だけでも考えてみよう。」ということでした。
ただ、前回書いた、ちっちの姉の「健康家族」発言もありましたが、やはり、食事を作る妻にとっても大きな負担になり、結局は長続きすることはありませんでした。そして、私も、それを責めることはできませんでした。
そういう意味では、いま、放射線で汚染された食べ物を子供に食べさせまいと努力されている方々のストレスは本当に大変だと思います。何を信じればよいのか、いつまでそれを続ければいいのか、とんでもない不安と戦いながら日々の食事を作っている方々の努力には本当に頭が下がります。
その治療院のウェブサイトには、西洋医学的な治療で他に手立てがないと言われた方でもまだ治る道がある、ということが書かれていました。要は、食事療法や、びわの葉温灸などの自然療法で身体が本来持っている自然治癒力を高めてがんを治す、ということです。
腫瘍の転移や進行を、抗がん剤や放射線で止めるということができなくなった今、このような自然療法でも一縷の望みがあるのであればと思い、この治療院に電話してみました。そうすると、まず一度親御さんだけでも来院してご相談しましょう、ということになり、私達夫婦はこの治療院を訪ねたのです。
治療院は街の中のビルの1階にあり、入り口には自然食のカフェの看板が出ていました。その奥が治療院になっているようで、やせ気味で作務衣を着た、いかにも玄米菜食をやっていそうな風貌の男性が迎えてくれました。
約束の時間より少し早く着いたので、前の治療が終わるまでの間少し待つことになりました。自然療法や玄米菜食の本をぱらぱらとめくりながら待つことしばし、先ほどの男性が現れました。
彼は、毎日の食事から様々な毒素を取り込んでいるので、治療と並行して食事を改める必要があるということを力説されました。それは確かに一理あると考えていましたので、私たちも少々大変になるけれど、ちっちのためなら食事を改めることも考えて話を聞いていました。
その話の流れの中で、彼が、
「小学生のお子さんなら学校給食があると思いますが、あれが良い食生活の大きな邪魔です。それもできれば避けてください。」と非常に苦々しげな顔をして言ったのです。
そこで私の意識がはっと覚めました。
長い入院生活を過ごしたちっちにとっては、毎日学校に行ってみんなと同じ時間を過ごすことが一番大事な心の支えになっていて、それは給食の時間も含めてではないかと思ったのです。ちっちにいつもと同じ生活をさせてあげたいと考えている以上、家での食事を少しでも身体にいいものにすることはちっちが納得しても、きっと給食の代わりに玄米菜食の弁当を持っていくのは嫌がるだろうと思いました。きっと、そうすることを強いると、もっと大事なものを失くすような気がする、直感的にそう思ったのですが、どうやら妻も同じように思ったようでした。
とりあえず、がんに効くといわれるびわの葉のお茶(北海道ではびわが生えないのでびわの葉自体手に入らないのです)と、風呂に入れるびわの葉だけを買って、治療院を後にしました。
帰りのクルマの中で、妻と話したことは、「今のちっちの心の支えになっていることを否定することはできない。少なくとも家で私たちがちっちに何をしてあげられるか、家の食事だけでも考えてみよう。」ということでした。
ただ、前回書いた、ちっちの姉の「健康家族」発言もありましたが、やはり、食事を作る妻にとっても大きな負担になり、結局は長続きすることはありませんでした。そして、私も、それを責めることはできませんでした。
そういう意味では、いま、放射線で汚染された食べ物を子供に食べさせまいと努力されている方々のストレスは本当に大変だと思います。何を信じればよいのか、いつまでそれを続ければいいのか、とんでもない不安と戦いながら日々の食事を作っている方々の努力には本当に頭が下がります。